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カシミール地方の紛争問題をわかりやすく簡単に解説!

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この記事では、インド、パキスタン、中国の三カ国間で起こる国際問題「カシミール紛争」を特集します。ぜひご参考ください。

カシミール紛争とは

カシミール紛争とは、パキスタン北部とインド北西部にまたがるカシミール地方の領有権をめぐって、インド、パキスタン、中国の3カ国が領有権を主張している地域紛争を意味します。

その中でも、インドとパキスタン間での争いは激しく、現在でも軍事的緊張が続いています。過去1947年、1965年、1971年に三度の戦争、いわゆる「印パ戦争」が起こっています。直近でも、2019年2月にパキスタン軍がカシミール地方に空爆し、インド軍の戦闘機2機を撃墜、パイロットを拘束しています。

国際社会もこの状況を憂慮しており、インド、パキスタン両国に緊張緩和を促しています。しかし、両国の対立は根深く歩み寄りは一向に見られません。

カシミール紛争の原因

歴史を辿れば、カシミール地方はもともとはイギリスの領土でした。イギリスの領土であった時代はカシミール地方は藩王国とされ、その国王はヒンドゥー教を信仰していました。しかし、国王はヒンドゥー教を信仰していましたが、藩王国の住民の多数はイスラム教を信仰していました。

そのような中、1900年代半ばに藩王国はイギリスから独立します。もともと藩王国の国王はインドにもパキスタンにも属さないかたちでの独立を目指していました。しかし、それが気に入らないパキスタンが藩王国に攻め入ります。

藩王国の国王はヒンドゥー教徒ですから、国民の80%以上がヒンドゥー教徒のインドに助けを乞います。その国王の助けに応じてインドが参戦。そして1947年に第一次印パ戦争が勃発します。

藩王国の国王はヒンドゥー教徒、住民の多数はイスラム教徒です。そこにインドとパキスタンの宗教問題も絡んでくるわけですから収拾がつきません。結果的にカシミール地方は、ヒンドゥー教の信仰者とイスラム教の信仰者の対立を示す縮図として、現在まで対立が続きます。

インドとパキスタンの独立と対立

ここで本題とは少しそれますが、インドとパキスタンの対立理由について触れておきます。

インドとパキスタンの独立

インドとパキスタンがイギリスから独立したのは1947年の8月です。

それまでの間に独立運動がなかったかというと、そうではありません。1857年の東インド会社のインド人の傭兵が起こした反乱「インド大反乱」以降、インド国内では反英闘争が幾度となく起こっています。

では、幾度となく反英闘争や独立運動が起こっているにも関わらず、なぜ1947年に限っては独立することができたのでしょうか。答えは「第二次世界大戦」にあります。

1939年から1945年にかけて起こった第二次世界大戦の結果、イギリスは勝利したものの大きく疲弊してしまいます。その影響でイギリスは、従来の超大国の地位から転落してしまうのです。また世界的に脱植民地化の流れが強まっていきます。

そのような背景をふまえて、イギリスは当時植民地であったイギリス領インド帝国の独立を認めるわけです。

インドとパキスタンの対立

イギリスから独立を果たしたインドですが、独立当時のインドでは宗教的な対立が激化していました。具体的には、多数派のヒンドゥー教徒と少数派であるイスラム教徒の対立です。なかでもジンナーを指導者とする全インド・ムスリム連盟の勢いは著しく、ジンナーが唱えたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離を強硬に主張する 「二民族論」は社会に大きな影響を与えます。

一方でインド独立の父として有名なガンディーらは、こうした分離の動きに強く反対して統一インドの実現を訴えていました。その他の党派においても政教分離の立場から、ヒンドゥー教とイスラム教の宗教による分離には慎重でした。ただ、ジンナーが強固に主張するヒンドゥー教とイスラム教の分離の勢いはとまりません。

この時、宗主国イギリスの考えはどうだったのでしょうか。イギリスは、当初ヒンドゥー教徒の多い地域にヒンドゥスタンという国を建国し、イスラム教徒の多い地域にパキスタン、そして藩王国を残し、この三国を合わせて「インド連邦」を構成する独立案を描いていました。

ただ、この案の合意は得られません。そこでイギリスはインドを三国で一体とする計画を諦め、イギリス領インド帝国をインドとパキスタンに分割することによって独立することを宣言します。

これにより、インドとパキスタンの分立による建国が成立します。このインドとパキスタンの分立によるインド帝国の独立は、ヒンドゥー教とイスラム教の宗教対立をより加速させることになります。

インドとパキスタンの戦地となるカシミール地方

話を本題のカシミール地方に戻します。もともと藩王国の領土であったカシミール地方ですが、パキスタンの侵攻に遭い、インドに助けを求める形となりインドとパキスタンの戦地と化します。その結果、1947年から1949年には第一次印パ戦争が、1965年から1966年には第二次印パ戦争が、1971年には第三次印パ戦争が起こっています。

気付けばもともとの領主「藩王国」は形を消し、カシミール地方はインドとパキスタンの激戦地となります。

この争いは現在でも続いており、世界的な国際問題の一つとなっています。 またインドにおいては、1959年から1962年にかけてカシミール地方を争い中国とも戦争を起こしています。いわゆる中印戦争です。

中国がカシミール地方に介入

中国と長年イギリスの植民地であったインドは、ネパールとブータンを挟んで接しています。その全域がヒマラヤ山脈という高山地帯であったためか正確な国境は曖昧でした。またインドが植民地時代であった際は、ヒマラヤ山脈まで中国の実効支配が渡っておらず、事実上独立したダライラマ政権の統治下にあったチベットもありました。

そのような中で、中国は1950年にチベットに対する主権を認めさせるためチベット侵攻を行い、チベットを編入します。その後、1956年には中国政府のチベット統治、支配に対し反対するチベット動乱が起き、1959年にはチベット亡命政府の長のダライ・ラマ14世がインドに亡命します。

ここで中国とインドの関係は一気に悪化。両国は国境の解釈をめぐって対立するようになります。そして1959年に中印戦争が勃発。戦地はカシミールとその東部地域で中国とインドによる激しい戦闘が繰り広げられます。

戦争の結果は中国の勝利に終わりますが、実は中印戦争のさなかにパキスタンがカシミール地方のインド支配地域に侵攻して、第二次印パ戦争が起こっています。この中印戦争をきっかけに、中国がカシミール地方に介入してくるようになります。

核保有国三国による紛争状態のカシミール地方

世界を見渡せば、紛争が起こっている場所は各地にあります。紛争において、このカシミール地方が世界的に注目され国際問題となっているのは、関係国のインド、パキスタン、中国が核を保有している国だからです。特にインド、パキスタンは核兵器の縮小を目的にした条約「核拡散防止条約」に加入していません。

宗教間の対立が深刻化し、国内の世論が傾けば、再びインドとパキスタンの戦争が起こる可能性があります。その際に、核拡散防止条約に加盟しないインドとパキスタンが核を使用しない絶対的な理由があるとは言い切れません。

インドとパキスタンはお互いに歩み寄ることはできないのでしょうか。実はパキスタンはインドに歩み寄る姿勢をみせています。ただ、インド側が国内の世論を意識してパキスタンの姿勢を相手にしていない状況があります。宗教間の対立に政治的要因も絡むと、解決に向けて困難さがさらに増します。

世界が注目するカシミール紛争には、今後も注意が必要でしょう。

この記事では、インド、パキスタン、中国の三カ国間で起こる国際問題「カシミール紛争」を特集しました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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